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太閤検地と固定資産課税台帳

2019年12月28日「土曜日」更新の日記

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豊臣秀吉は、天下を統一すると、日本六十余州津々浦々に至るまで「検地」を実施した。すなわち、全国の土地を調査し、標準的な収穫高によって、田ならば上田、中田、下田と分け、上田の収穫高は1反あたり1石5斗、中田は1石3斗、下田は1石1斗というようにきめて検地帳に記載していった。畠の場合も、収穫高を米に換算して、上畠1石2斗、中畠1石、下畠8斗とか、屋敷も1石2斗とかいうように記載し、その耕作者の名前も登録した。「検地帳」というのは、現在の固定資産課税台帳と登記簿とを兼ねたようなものである。田畑などの所在地や面種や地目がまず記載されている。そして、検地帳に記戦された耕地者が、その土地の権利者であるということでは登記簿に似た性質をもっているし、その耕作者が年貢米を納める納税義務者であるという点では、課税台帳の性質をもっている。そして、上田とか中畠というのは地目に相当し、1石5斗とか、1石とかいうのは評価額であり、それがイコール課税標準になる。当時の租税のほとんどは年貢米によっていたので、この太閤検地によって、近世封建国家の財政的基礎が確立したといえよう。そして、四公六民といえば、各人ごとに集計された石高の40パーセントを領主が賦課徴収するということであり、五公五民、六公四民という比率もあった。これが税率にあたる。その後、この検地帳は、引きつがれ約500年後の現在の課税台帳になっており、固定資産税の評価額も貨幣で表示されることになっているが、太閤検地以来の評価の亡霊がいまだに残っており、住宅地の評価でも、現状にかかわらず昔も上田であったところは高く、山林であったところは低い傾向の残っている例もみられる。

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