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職住近接

2019年5月18日「土曜日」更新の日記

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かつては郊外にあった高級住宅街が都心に戻ってきた私が社会人になり、住宅業界の営業マンとして不動産業界とはじめて関わりを持ったのは1985年です。それ以前は、「職住近接」というキーワードは、それほどポピュラーではありませんでした。「それはなぜかというと、都内のあちこちには、まだまだ大小さまざまな工場がたくさん稼動していましたし、ニュータウンや郊外の住宅地にもそれなりに人気があったからです。しかも、都内の住環境は今ほど良くはありませんでした。清掃工場はダイオキシンを撤き散らし、火力発電所は黒煙を吐いていたのです。また排ガス規制の緩やかな時代の自動車の排気ガスはドス黒く、それがために私は喘息になったほどです。ですから、高額所得層や東京の富裕層は、むしろ都心を避け、近いところでは田園調布、遠いところでは鎌倉などの高級住宅街から通勤していました。8年というのは、有名なプラザ合意(=ニューヨークのプラザホテルにおける国際的な経済会議)が行われた年で、日米間で円高ドル安への誘導が始まった年です。公定歩合が引き下げられたため、国内市場には潤沢な資金が溢れ出して地価も上がり始めました。その後、急激な円高が始まり、国内の工場が海外へ進出するようになり、同時に排気ガスや環境基準の規制が徐々に厳しくなりました。そして、ついにバブルが崩壊し、地価も下がり、ふと気がつくと「都心は意外に住みやすいのではないか」という気運が高まってきたのです。郊外に逃げていた人口が都心に戻り始め、都心回帰という現象が始まったのがこの頃です。職住近接という用語が頻繁に使われるようになったのも、まさに、この頃なのです。「また同時に、バブル崩壊によるリストラなどで、ニュータウンに入居した世代(=団塊世代)の受難も始まりました。教育格差の問題も顕在化してきました。ますます街の格差が明確になってきたのです。都市化の潮流のベクトルが逆向きに変わり始めたのは、8年代後半からです。完全に向きが変わったのは、2000年になってからでしょう。地方都市でも、中心市街地のシャッター通り化などが問題になり始めました。明治維新から続いてきた工業化社会による近代化というキーワードとともに栄えてきた街の未来が、ここに来て、ようやく見えてきたのです。結局、その末路は、3種類しかありませんでした。一つ目は「これからも成熟を続ける街」、二つ目は「現状を維持できる(サステイナブルな)街」、三つ目は「衰退し続ける街」。全国各地のすべての街は、この三つの末路のうちの、どれかに振り分けられていくようになりました。

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